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知識経営の源流(9)
「オーストリア・ハンガリー  ウィーン・ブダペスト1918-1933」
知識経済・経営の源流に関わった人々は他にも多い。紹介しきれなかった人々には下記がある。

シュンペーター[1883―1950]:マルクスが死に、ケインズが生まれたのと同じ1883年に、現チェコ領モラビアのトリューシュで生まれた。後にウィーン大学法学部に入学。オーストリア(経済)学派を創設し、そのアイデアはフォン・ミーゼス[1881―1973]、フォン・ハイエクに受け継がれる。創造的破壊、イノベーションを提唱する。その後、渡米しハーバード大学の教授となり、サミュエルソンらの師となる。

カール・マンハイム[1893―1947]:知識社会学の確立者で、ブダペスト生まれ。ブダペスト大学哲学科を卒業後、ドイツへ留学。1918年『認識論の構造分析』によってブダペスト大学から学位を得る。その後1933年に英国に亡命。

フォン・ハイエク[1899―1992]:オーストリア学派の代表的経済学者。1930年代にウィーン大学からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に招かれた。ノーベル経済学賞。

カール・ポラニー[1886―1964]:すでに挙げた暗黙知の提唱者、マイケル・ポラニーの兄。『大転換−市場社会の形成と崩壊』を著した経済人類学の祖である。

カール・ポパー[1902―94]:ウィーン生まれ。哲学者。ハイエク同様、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)教授を歴任。ポパーについてはここで触れる必要もないだろう。

フリッツ・マッハルプ[1902―83]:知識産業論を表したマッハルプは、ウィーン郊外に生まれ、1923年に20歳の若さでウィーン大学から学位を授与されたが、1933年に渡米し、その後帰化。

ピーター・ドラッカー[1909―2005]:知識の重要性、知識労働者の概念を提唱した。ドラッカーもウィーンのギムナジウムを卒業後、ドイツを経てロンドンに移っている。ポラニー家と交流があったことは述べたが、オーストリアの精神科医、ジークムント・フロイト[1856―1939]もドラッカー家と交流があったという。


こういう流れを見ていると、知識経営や経済のアイデアの種は、オーストリア・ハンガリーから発し、英国を経由して米国、あるいは日本に広がったように見える。
この中でドラッカーは、図にあるように知識経営をいまに広げるまさにハブの役割を担った。



こうした知の流れは戦後もしばらく続く。
ヘッジファンドの父、ジョージ・ソロス[1930-]はブダペスト生まれ。ハンガリー名「シュヴァルツ・ジェルジ」として生まれる。知識経営という流れではなく、(自称)市場原理主義者。LSEで学んで米国で投機家となる。
インテルのアンディ・グローブ[1936-]もブダペスト生まれだが、米国に渡ったのは1956年のハンガリー動乱時だ。


ブダペスト、中央市場のなかのレストランの前のバイオリン弾き。筆者撮影。市場なのに何故か物価は街より高かった。
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知識経営の源流(8)


都市においては、国家や人種を超えたコラボレーションが起きる。都市はカオティックで、危険な部分も孕んでいるが、社会的創造性の温床ともなる。

ポラニー家は「ユダヤ人」ではあるが、実はユダヤ人とは本質的には(日本の辞書には載ってないが)、ユダヤ人の母親(あるいは父親も含む場合があるが)から生まれた者をいうのであって(したがってイエスもユダヤ人)、ユダヤ人種というのが継承されているのではない。少なくともユダヤ人はそう言う。ところで、ではその母親は?そのまた母親は?となると、そのあり方を決めるのは伝統としかいえない。
ポラニー兄弟の父親は挫折したとはいえ鉄道王となり、ヴィトゲンシュタインの父親は技術者から身を起こして鉄鋼業で大成功した。しかし彼らは「ユダヤの教え」を守って成功したわけではない。ヴィトゲンシュタインの祖父は改宗ユダヤ人であったし、ポラニー家のアパートメントは、ブダペストのドハーニ街のシナゴーグよりも、聖イシュトバーン大聖堂に近いメインストリート、アンドラーシ通りにあった。これらが象徴しているような気がする。つまり、彼らは確かにその伝統的なユダヤ風教育にも影響を受けただろうが、むしろシュンペーターのいう企業家(アントレプルナー)に近かった。というより、シュンペーターは彼らのような人々の台頭するのを目の当たりにしてアントレプルナーを思ったのではないか。
アントレプルナーは本来イノベーションを持続する人々として構想された。しかし、現実には20世紀において、企業は大企業化・大組織化の道を辿り、その過程でそういった創造的性格を失っていった。だからシュンペーターはそれを見て失意のうちに死んだ、ともいう。(シュンペータについては根井 雅弘『シュンペーター―企業者精神・新結合・創造的破壊とは何か』をみてほしい)

いずれにせよ、20世紀初頭、アントレプルナーを生んだのは、都市の活気、カフェのような場に集まる創造的な人々の交流だったのだ。同時期、ドイツではワイマール共和国が生まれていた。
当時のワイマールを代表するのはバウハウスだ。バウハウスにも多くの多彩な人物が集まった。モンタージュ手法で有名なハンガリー生まれの写真芸術家モホリ・ナギもその一人だ。バウハウスは建築とデザインに画期的な視点と方法を持ち込んだ。それは当然産業とも結びついた。
この時代、イノベーションはこうして現実化していった。それはまさに知識経営の原初的形態であった。しかしブダペストもワイマールも1933年のホロコーストによって打ち砕かれてしまった。しかし、人間の創造的願望は死ななかった。このようなスピリットが受け継がれたのはシリコンバレーのような場所だと思う。

写真はブダペストの聖イシュトバーン大聖堂の内部。筆者撮影。

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知識経営の源流(7)


果して何故この時期(1918-1933)、これだけ多くの天才がオーストリア=ハンガリーという場に輩出したのだろうか?
ポラニーやゲーデル、フォン・ノイマンはユダヤ人であるということから民族的なものもあるかとも思わせるが、その論ではナチズムの人種主義の裏返しだ。

むしろ、僕はこれは都市の力だと思う。
ブダペスト=ウィーンは、当時世界レベルの知識都市(いまナレッジ・シティはホットなテーマだ Knowledge Cities)だった。
そもそもブダペストは中欧の要地で、古来、他民族の占領の対象となり、亡命先だった。民族構成は多様であり、「多元主義的」なメルティング・ポットとなっていた。

帝国の中枢は有数の都市・工業化地域でもあった。多くの人々が集まってきた。たとえばウィーンの人口は1910年には200万人を超えていた(現在は156万人)。ブダペストの人口は1910年に88万人、1944年には138万人に達していた(現在は177万人)。両市合わせて300-400万人の規模であったと思われる。
一方、ベルリンは1900年に270万人、その後1943年に人口は史上最高の448万9700に達した。ちなみに戦前の東京は1932年に区が大合同し大東京となり、人口566万人。ニューヨークは1900年には300万人強だったが、1930年には欧州からの移民で700万人と急増した。

1933年にはじまるホロコーストのはじまりを予感して、移民の大波が起きたが、ブダペストを中心とするユダヤ系の難民を吸収して知のメルティング・ポットとなったのはニューヨークであり、その意味でニューヨークはブダペストの正当な後継者なのだ。

因みに人口300万人規模の都市は、都市の多様な活気と同時にと人的繋がりが適度に保たれる、「スモールワールド性」を享受できるのではないか。当時のブダペストは、十分に新しい出会い・知的刺激があるとともに、カフェなどに行けば誰かハブになるキーマンに会える、そんな環境だったのではなかったろうか。
ル・コルビュジェが1922年に掲げた「300万人都市」構想というのもあったが、都市は人類的に見た際の知識創造の場であり、適度な大きさが必要なのだ。かつてはアレクサンドリアの30万人、バグダッドの100万人が徒歩や動物による交通の時代の都市規模だった。いまその規模はテクノロジーによって大きくなっている。しかし、その規模を超えると、今度は規模の弊害、たとえば孤立化などが大きくなる。
現在周辺地区を含めて300万人サイズの都市・地域としてはシリコンバレー(地域250万人)、ボストン地域(都市圏として500万人)、日本では名古屋・横浜・大阪だ。近代においては産業革命をリードした19世紀末ロンドンがこの規模の都市だった。

写真はブダペストのブダ地区丘陵に立つ王宮から有名な「鎖橋」を介してペスト地区を眺めている。中央部右手の尖塔は聖イシュトバーン聖堂。筆者撮影。
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知識経営の源流(6)
再びウィーンへ。
20世紀最大の哲学者とも言われるルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン[1889-1951]もウィーン生まれで、さまざまな遍歴の後、再びこの時期ウィーンにあった。
<知識>という観点からのヴィトゲンシュタインへの関心は、よく知られているように、既存の哲学の限界を言語という問題として切り裂いてみせたことにある。しかし、それ以上に興味深いのは、彼自身の人生の創造的姿勢にある。
ヴィトゲンシュタインは、世の中の動きなど目に入らず、自分の真と思うことに沿って行動した。たとえば、相続したかなりの額の財産を投げうって、芸術家達を支援したことがあった。まさに哲学者的だと思う。建築史上ル・コルビュジェほどの意義を持つウィーンの建築家、装飾否定主義で知られる建築家、アドルフ・ロースがその一人で、後も二人の間には親交があったようだ。

写真はロースの作品。王宮前広場のロースハウス[1911]。装飾を廃し、当時大きな物議を醸した。筆者撮影。



1926年頃、ヴィトゲンシュタインはロースの弟子を介して自身の姉(ストーンボロー夫人)の家の設計に関わることになる。後に「家のかたちの論理学」と呼ばれたこの家について、ヴィトゲンシュタインはアップルのスティーブ・ジョブズ並のこだわりを発揮している。たとえば完成間近に屋根を3センチ上げて欲しい、とか。
当時30代後半、恐らく精神的に落ち込んでいたヴィトゲンシュタインにとって、このプロジェクトは一種のセラピーになったはずだ。自分の思考や知識を形態に変換する、人工物を創作するという創造的行為は、単なる論理分析な知的作業とは異なる経験を意味するが、それは従来は手仕事職人のものだった。ここで建築と哲学、知識が結びついたといえる。同じウィーンの現代建築家(社会的芸術家というべきか)のフンデルトヴァサーに通ずるものがある(ただしこちらは装飾満載の感だが)。

さて、この通称「ヴィトゲンシュタイン・ハウス」(ストーンボロー邸)はウィーンに現存していて、現在はブルガリア文化研究所の施設として保存・使用されている。実際に見ていると独特の哲学的存在感が感じられる。

写真はヴィトゲンシュタイン・ハウス。ロース以上に装飾を配した建築だ。筆者撮影。



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知識経営の源流(5)
ゲーデルの不完全性定理(数学の形式的体系の中では自己の矛盾を証明できない)とポラニーの暗黙知の概念にはどうしても共通性を感じてしまう。
ポラニーは、形式知の不完全性を言った。
「生化学者、医師、画商、繊維業者は彼らの専門的知識を部分的には教科書から得るが、これらのテキストは五感を通じた訓練を伴わなければ何の役にも立たない。」
また、科学の、科学のためだけの正当化を否定した。つまり形式知(言語化されている知識、たとえば数学式や科学式)にはそれ自身では限界があるのだ。

では、経営学はどうだろうか?経営学は正直言ってありとあらゆる概念の寄せ集めだ。「経営(学)はジャングル」だとも言うし、戦略論のヘンリー・ミンツバーグにとっては戦略は「サファリ」だ(少なくとも10個の戦略論のスクールがあり、ちょうどサファリのようにこれらを狩りながら戦略を実践する)。ミンツバーグは「MBAは会社を滅ぼす」といった。経営学を形式知の体系でとらえてはいけない。当然ポラニーの命題を適用すれば、「経営者は彼らの専門的知識を部分的には教科書やMBAコースから得るが、これらのテキストや形式知は五感を通じた実践を伴わなければ何の役にも立たない」のだ。

暗黙知の役割は、経営者にとっても、経営学者にとっても重要な位置付けを担っている。もちろん、現場で知を生みだし、イノベーションに邁進するナレッジワーカーにとっては、単にロジカル・シンキングだけで分析や計画立案をすることの落し穴を示唆している。

知識の本質はそこにあるもの(形式知やリソース)ではなく、常に暗黙知を生きる状態(Tacit Knowing)やプロセス、あるいは知の方法論である。

こうしたモノの見方が生まれてきたのは何故か。それは20世紀初頭、科学偏重に邁進していった西欧・米の知のスクールに対する、中欧部(オーストリア・ハンガリーを中心とする)の知の伝統が大きな警鐘を鳴らしたものとも見えるのである。

これは東洋の知にもつながる。般若(パンニャー)は仏教で言う智慧だが、般若は、識(ヴィジュニャーナ)とは違う。識は、客観的・分析的な知(形式知)である。般若心経にある「無色 無受・想・行・識」(これらのもの--五蘊は一切ない)の「識」だ。識を超えて実践知とする知が般若である。

たとえば、暗黙知のあり様は言語化できないのだが、仏像の創作などによって伝わる(ような気がする)。

写真は右手に智慧を象徴する宝剣を持つ文殊菩薩(京都国立博物館、筆者撮影)。


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知識経営の源流(4)
現代の知識の時代の震源地となった20世紀初頭のオーストリア・ハンガリー。
この時期の登場人物としてもう一人忘れてならないのはクルト・ゲーデル[1906―78]だ。不完全性定理で有名なゲーデルは、「自然数論を含む数学の形式的体系の無矛盾は、その形式的体系の中では証明できない」ということを示し、真理の証明の不可能性を浮かび上がらせた。下世話な解釈だが、自分(あるいはシステム自身)が正しいかどうかは、自分(システム)内部のロジックでは証明できない、ということをゲーデルは示した。つまり、自身の正当性を証明できる完全数学はない。知識は不完全なものなのだ。とすれば、科学万能ではない世界、人間の創造性という余地が大きく見える(完全私的解釈)。ゲーデル関連書は多いが、『ゲーデルの哲学』(高橋 昌一郎 )が数学理論の説明とゲーデルの生きた背景とのバランスがとれていた。

こうした時代、それまでの近代科学や実証哲学への批判から、認識自体を覆すような知の革命が起きていた。その舞台のひとつがブダペストやウィーンのような場所だった。

ゲーデルは現チェコのブルノに生まれたが、ウィーン大学で数学と物理を学んだ。ゲーデルのある種ライバルで、風変わりな天才、現代のコンピュータの父となるジョン・フォン・ノイマン[1903―57]も、ハンガリー名、「ナイマン・ヤーノシュ」としてブダペストに生まれた。ブダペスト大学で最初学ぶが、後にドイツに向う。そこでノイマンはゲーデルに遭遇し「不完全性定理」を世に出すキーマンとなる。

20世紀初頭のオーストリア・ハンガリーは、こうした実証的科学や要素還元主義からの思考の転回の時期であり、それが科学や数学、哲学の世界で同時に起きていった。ただし、その波は、第二次大戦を経て、20世紀末になるまで経済や経営の世界では明らかにならず、「暗黙の次元」でありつづけた。

ウィーンのカフェは有名だが、写真は建築家アドルフ・ロース[1870-1933]設計の「アメリカン・バー」。


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知識経営の源流(3)
マイケル・ポラニー(ポラーニ・ミハーイ)をはじめとして、知識経営の背後の歴史として、現代の経済学、経営学の舞台に登場する人物の多くは、オーストリア・ハンガリー帝国に関係している。
オーストリア・ハンガリー二重帝国は1867年のアウスグライヒ(和協)成立から1918年の崩壊に至る時期のハプスブルク帝国をさす。
オーストリア学派と呼ばれる経済学のスクールでは、フリードリッヒ・フォン・ハイエクやジョセフ・A・シュムペーターがとくに有名だ。シュムペーター[1883―1950]は、イノベーションの概念を打ち出した。ハイエク[1899―1992]は、経済学の洞察に知識という概念を持ち込んだ(『市場・知識・自由』)。
ピーター・ドラッカー[1909―2005]も、マイケル・ポラニーの兄、カール・ポラニーとの出会いを記している。1927年、場所はウィーン。18歳のドラッカーは41歳のカールと当時の政治情勢について議論を交わしている。
キーワードはウィーン、ブダペスト、1918年(オーストリア・ハンガリー二重帝国瓦解)〜1933年(ホロコーストの始まる年)。不安定な15年間。みんなそこにいたのだ。
ブダペストからウィーンの距離は約250キロ。ただし列車ではいまでも3時間かかる。この二都市の政治・経済・社会・文化的状況のなかで知識経済や知識経営の源流が生まれたのだ。

写真はブダペストからウィーンに向う国際都市間列車の食堂車。



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知識経営の源流(2)
暗黙知の次元The Tacit Dimension』(1966)を著したマイケル・ポラニーはハンガリー、ブダペスト生まれで、物理化学者だったが、後に社会科学者となる。
兄は経済人類学者のカール・ポラニー、息子は化学者のジョン・ポラ二ーで1986年ノーベル化学賞を受賞している。
「マイケル・ポラニー」は英語風の読み方で、ハンガリー(マジャール)語では「ポラーニ・ミハーイ」である。
栗本慎一郎先生の『ブダペスト物語』(1982)によれば、ポラニー兄弟の父親は鉄道王で財を成したが破綻し、まだ10代だったマイケルが家庭教師で家計を支えたとある。母親「セシル・ママ」はユダヤ教のラビの娘で、両兄弟をはじめその姉妹をつうじて何人かの天才が輩出した[キーウーマン]だったようだ。
少年期のマイケル・ポラニーは前述のようにブダペストにいた。彼らのアパートメント周辺には、かつては欧州最大級のユダヤ・ゲットーがあった。今も(それでも大きな)シナゴーグの周辺の通りなどにその名残りがある。
(写真はブダペスト、ドハーニ街シナゴーグ裏の元ゲットー周辺。ポラニー家のアパートから歩いて5〜6分だった。)


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知識経営の源流(1)


知識経営、知の経済・経営学は二〇世紀の経営学の必然的な進化である。というのは、その源流に関係している。
明治初期の日本に欧米流経営概念が輸入されはじめた頃、21世紀に向けての新しい動きの種が蒔かれはじめていた。
その主人公のひとり(二人?)はカールとマイケルのポラニー兄弟だと思う。
マイケル・ポラニー[1891―1976]は「暗黙知」の概念を打ちだした人物だ。彼らはハンガリーの首都、ブダペスト出身。
知識経営の背後の歴史としての現代の経済学、経営学の舞台に登場する人物の多くは、オーストリア・ハンガリー帝国に関係している。
今年の夏、ブダペストを訪れたのは、かつてポラニー兄弟が棲んでいた市内の高級マンションが現存していて、その周辺の現在の様子を是非見てみたいという動機からだった。
兄弟が少年時代に棲んだ場所は市内の高級住宅地、聖イシュトヴァーン大聖堂近くだ。
写真で見てもわかるように、生憎の工事中の垂れ幕でメインのファサードが見れなかったのだが、その嵩と界隈の観察をすることはできた。

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<経営>って(2)
早稲田大学図書館所蔵大隈重信関係資料には、いくつか明治時代の経営資料が残っている。
19世紀末の資料は、鉱山・炭坑経営、石油会社経営、など第一次産業の経営に関するものが多い。
変わったものには、大隈重信宛に送られた、北海道の開拓使を廃止して「自由経営」にすべきだという書簡が残っている[1881]。これは函館区民の石川小十郎によるものだ。石川小十郎が何者かわからないが、とにかく激動の時期だ。この年には開拓使における官有物払下事件が起き、翌年には開拓使が廃止された。

さておき、同年には『哲学字彙』という辞書に「Fixed capital 固定資本」なる訳語が見える。1890年には作業会計法が出来た。こういった時期に、どっと西欧の経営概念が流れてきたのだろう。
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<経営>って(1)


「経営」というと、企業経営をすぐに思い浮かべるが、日本語の<経営>は、実は恐ろしく古い言葉だ。

書紀〔720〕の神武即位前己未年三月(熱田本訓)「当に山林を披(ひら)き払(はら)ひ、宮室〈大宮〉を経営(ヲサメツクリ)て、恭(つつし)みて宝位(たかみくら)に臨みて、元元〈御財〉を鎮(しづ)むべし」(日国オンライン)とある。
仏教では、結縁のために「写経や法会を営む」などといって、「お経」を営むというような意味が出てくる。
いまわれわれが使うような意味で「経営」という日本語を使ったのは、おそらく明治になってからだと思うが、福沢諭吉の「実業論」〔1893〕などに現れる。
今の経営は、近代以降のドイツ経営学あたりからきたものに日本語が適用されたのだろうか。


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