2007.12.29 Saturday
知識経営の源流(9)
「オーストリア・ハンガリー ウィーン・ブダペスト1918-1933」
知識経済・経営の源流に関わった人々は他にも多い。紹介しきれなかった人々には下記がある。
シュンペーター[1883―1950]:マルクスが死に、ケインズが生まれたのと同じ1883年に、現チェコ領モラビアのトリューシュで生まれた。後にウィーン大学法学部に入学。オーストリア(経済)学派を創設し、そのアイデアはフォン・ミーゼス[1881―1973]、フォン・ハイエクに受け継がれる。創造的破壊、イノベーションを提唱する。その後、渡米しハーバード大学の教授となり、サミュエルソンらの師となる。
カール・マンハイム[1893―1947]:知識社会学の確立者で、ブダペスト生まれ。ブダペスト大学哲学科を卒業後、ドイツへ留学。1918年『認識論の構造分析』によってブダペスト大学から学位を得る。その後1933年に英国に亡命。
フォン・ハイエク[1899―1992]:オーストリア学派の代表的経済学者。1930年代にウィーン大学からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に招かれた。ノーベル経済学賞。
カール・ポラニー[1886―1964]:すでに挙げた暗黙知の提唱者、マイケル・ポラニーの兄。『大転換−市場社会の形成と崩壊』を著した経済人類学の祖である。
カール・ポパー[1902―94]:ウィーン生まれ。哲学者。ハイエク同様、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)教授を歴任。ポパーについてはここで触れる必要もないだろう。
フリッツ・マッハルプ[1902―83]:知識産業論を表したマッハルプは、ウィーン郊外に生まれ、1923年に20歳の若さでウィーン大学から学位を授与されたが、1933年に渡米し、その後帰化。
ピーター・ドラッカー[1909―2005]:知識の重要性、知識労働者の概念を提唱した。ドラッカーもウィーンのギムナジウムを卒業後、ドイツを経てロンドンに移っている。ポラニー家と交流があったことは述べたが、オーストリアの精神科医、ジークムント・フロイト[1856―1939]もドラッカー家と交流があったという。
こういう流れを見ていると、知識経営や経済のアイデアの種は、オーストリア・ハンガリーから発し、英国を経由して米国、あるいは日本に広がったように見える。
この中でドラッカーは、図にあるように知識経営をいまに広げるまさにハブの役割を担った。

こうした知の流れは戦後もしばらく続く。
ヘッジファンドの父、ジョージ・ソロス[1930-]はブダペスト生まれ。ハンガリー名「シュヴァルツ・ジェルジ」として生まれる。知識経営という流れではなく、(自称)市場原理主義者。LSEで学んで米国で投機家となる。
インテルのアンディ・グローブ[1936-]もブダペスト生まれだが、米国に渡ったのは1956年のハンガリー動乱時だ。

ブダペスト、中央市場のなかのレストランの前のバイオリン弾き。筆者撮影。市場なのに何故か物価は街より高かった。
知識経済・経営の源流に関わった人々は他にも多い。紹介しきれなかった人々には下記がある。
シュンペーター[1883―1950]:マルクスが死に、ケインズが生まれたのと同じ1883年に、現チェコ領モラビアのトリューシュで生まれた。後にウィーン大学法学部に入学。オーストリア(経済)学派を創設し、そのアイデアはフォン・ミーゼス[1881―1973]、フォン・ハイエクに受け継がれる。創造的破壊、イノベーションを提唱する。その後、渡米しハーバード大学の教授となり、サミュエルソンらの師となる。
カール・マンハイム[1893―1947]:知識社会学の確立者で、ブダペスト生まれ。ブダペスト大学哲学科を卒業後、ドイツへ留学。1918年『認識論の構造分析』によってブダペスト大学から学位を得る。その後1933年に英国に亡命。
フォン・ハイエク[1899―1992]:オーストリア学派の代表的経済学者。1930年代にウィーン大学からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に招かれた。ノーベル経済学賞。
カール・ポラニー[1886―1964]:すでに挙げた暗黙知の提唱者、マイケル・ポラニーの兄。『大転換−市場社会の形成と崩壊』を著した経済人類学の祖である。
カール・ポパー[1902―94]:ウィーン生まれ。哲学者。ハイエク同様、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)教授を歴任。ポパーについてはここで触れる必要もないだろう。
フリッツ・マッハルプ[1902―83]:知識産業論を表したマッハルプは、ウィーン郊外に生まれ、1923年に20歳の若さでウィーン大学から学位を授与されたが、1933年に渡米し、その後帰化。
ピーター・ドラッカー[1909―2005]:知識の重要性、知識労働者の概念を提唱した。ドラッカーもウィーンのギムナジウムを卒業後、ドイツを経てロンドンに移っている。ポラニー家と交流があったことは述べたが、オーストリアの精神科医、ジークムント・フロイト[1856―1939]もドラッカー家と交流があったという。
こういう流れを見ていると、知識経営や経済のアイデアの種は、オーストリア・ハンガリーから発し、英国を経由して米国、あるいは日本に広がったように見える。
この中でドラッカーは、図にあるように知識経営をいまに広げるまさにハブの役割を担った。

こうした知の流れは戦後もしばらく続く。
ヘッジファンドの父、ジョージ・ソロス[1930-]はブダペスト生まれ。ハンガリー名「シュヴァルツ・ジェルジ」として生まれる。知識経営という流れではなく、(自称)市場原理主義者。LSEで学んで米国で投機家となる。
インテルのアンディ・グローブ[1936-]もブダペスト生まれだが、米国に渡ったのは1956年のハンガリー動乱時だ。

ブダペスト、中央市場のなかのレストランの前のバイオリン弾き。筆者撮影。市場なのに何故か物価は街より高かった。









