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<経営>って(4)


福沢諭吉の経営学とはどんなものだったのだろうか?

福沢諭吉は、欧米に学べとも言ったし、晩年に向けては日本の独自性を主張した、といったが、実は当時から、しばしば一見では矛盾するようなことを述べて批判されていた。その歴史的な評価もいろいろだ。けれどもそれは、矛盾でなく、「楯(対象)の両面を見る」という福沢独自の「知の方法」だと喝破したのは丸山真男だった(『福沢諭吉の哲学』)。

「学問のすすめ」を著して以来、「実学」のイメージが定着していったが、福沢諭吉の実学の本質は単なる処世術的なものではなく、事物の両面を見、すなわち「状況判断に基づいて」、「緊急な課題を優先的に選択する」という方法(論)だ、といったのである。つまり、現在の状況では何が相対的に大事な課題かということを考えて、そこから自分の「役割」を考えていくということである。それは、アリストテレス以来の実践的智慧(practical wisdom)に通ずる方法(論)である。それは、建前や論理分析に依存せず、あくまでも現実と普遍を行き来しつつ最善の手段を選び取ることであり、歴史的に偉大なリーダーシップの知のあり方そのものでもある。(これについては『美徳の経営』を参照して欲しい)

こうした視点から福沢諭吉の「経営(論)」も考えてゆく必要がある。
そもそも世間胸算用のような、商人の知は江戸期を通じてあったわけだから、とりたててそれらを「実学」として重要だということはない。
丸山真男の指摘によれば、福沢諭吉は江戸期を通じての儒教的な価値観を批判し、人間(中心)的な価値観を提示した。つまり、儒教的な学問によって社会を維持支配してきたことを批判し、主体の自由を謳った。従って、その実学は、商人の知恵ではなく、「自ら労して自ら食らう」ための、あるいは自ら考えて行動していくための実践的智慧のすすめだったということになる。(『文明論之概略』

それは一見するとそれまで(江戸期)の思想にも似ている面もあるが、価値観やものの見方という点で、異なるのだ。
次回にはその一例を挙げよう。

因みに、福沢諭吉は中津藩(大分県中津市)藩士の次男として、大坂・中之島、玉江橋の中津藩蔵屋敷で生まれたが、二歳のときに父が死んで中津に帰った(20歳のとき再び同屋敷に戻り、適塾に通う)。写真は同藩蔵屋敷(現在は朝日放送本社が建設中)近くの福島天満宮。もし諭吉が七五三(数えで三才)を行っていたらここに参拝したはずだという。筆者撮影。
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<経営>って(3)
<知識経営の源流>に話が逸れていってしまったが、日本語としての「経営」に筋を戻そう。
Managementの訳語、翻訳された概念としてではなく、日本語にすでにあった「経営」(そのルーツはとても古い、少なくとも7世紀、つまり恐らく中国にルーツがある)。明治以降は、急速にその意味を増した。あるいは意味を変えていった。しかし、いまでも、「経営」はまだどこかその伝統を匂わせている。だから、「日本的経営」などというときには、単にmanagementの日本バージョンを言っているのでない。どちらかというと、もっと深い背景を持ったことを示唆する。
少なくとも、そのニュアンスは、いまわれわれが言うマネジメントとは随分違う。大体、マネジメントという米国経営学の概念が言われるようになったのは第二次世界大戦後で、明治以降の戦前まではドイツ経営学が主流だった。ドイツ経営学の「経営」とはBetriebである。これは「企業」とか「事業」とかを意味している。Managementが「操作」「管理」を意味するのとは違い、Betriebは元の日本語の経営、つまり「なわを張り、土台をすえて建物をつくること」「物事のおおもとを定めて事業を行なうこと」といった意味により近い。恐らく、それで経営という訳語が適用されたのではないかと思う。

さて、明治初期に「経営」の啓蒙に関わったのは、すでに紹介したように福沢諭吉などである。福沢は、渡米経験があり、初期には米国に大きく影響を受けた。晩年には日本の独自性を謳うようになるが、「人の上に人をつくらない」という考えは、米国合衆国憲法からの借用だ。

「アメリカ的経営から学ぶべきところと日本企業が培ってきた長所をうまく生
かし、新しい経営を創造しよう」。今こんなことを言われても、珍しくないが、最初にこういったことを言ったのは福沢諭吉だ。

「人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」
この「学問のすすめ」は、学問(知識)によって理想と現実のギャップを埋め、あるべき人生を送ることを指南している。そして福沢自身、知識を生きる礎とした。

実際、福沢は自らも事業を興した。手がけた三大事業は「慶応義塾」「時事新報」「交詢社」だ。 「慶応義塾」は教育、「時事新報」は新聞(メディア)、「交詢社」(倶楽部、社交サービス)である。すなわち、いずれも知識産業であった。
因みに、『時事新報』は福沢諭吉の創刊した日刊新聞で、創刊明治15年。一時期「日本一」の高級紙になったが、関東大震災の際に多くの資産を失い、その後も時代とともに廃れ、昭和11年末に幕を閉じた。戦後復刊されたが、長くは続かなかった。


サンフランシスコのベイ・ブリッジ。1936年に架けられた橋だから福沢諭吉が咸臨丸で太平洋を渡りサンフランシスコ湾にたどり着いた時(1860年)には当然まだない。筆者撮影。
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