2008.01.20 Sunday
<経営>って(4)

福沢諭吉の経営学とはどんなものだったのだろうか?
福沢諭吉は、欧米に学べとも言ったし、晩年に向けては日本の独自性を主張した、といったが、実は当時から、しばしば一見では矛盾するようなことを述べて批判されていた。その歴史的な評価もいろいろだ。けれどもそれは、矛盾でなく、「楯(対象)の両面を見る」という福沢独自の「知の方法」だと喝破したのは丸山真男だった(『福沢諭吉の哲学』)。
「学問のすすめ」を著して以来、「実学」のイメージが定着していったが、福沢諭吉の実学の本質は単なる処世術的なものではなく、事物の両面を見、すなわち「状況判断に基づいて」、「緊急な課題を優先的に選択する」という方法(論)だ、といったのである。つまり、現在の状況では何が相対的に大事な課題かということを考えて、そこから自分の「役割」を考えていくということである。それは、アリストテレス以来の実践的智慧(practical wisdom)に通ずる方法(論)である。それは、建前や論理分析に依存せず、あくまでも現実と普遍を行き来しつつ最善の手段を選び取ることであり、歴史的に偉大なリーダーシップの知のあり方そのものでもある。(これについては『美徳の経営』を参照して欲しい)
こうした視点から福沢諭吉の「経営(論)」も考えてゆく必要がある。
そもそも世間胸算用のような、商人の知は江戸期を通じてあったわけだから、とりたててそれらを「実学」として重要だということはない。
丸山真男の指摘によれば、福沢諭吉は江戸期を通じての儒教的な価値観を批判し、人間(中心)的な価値観を提示した。つまり、儒教的な学問によって社会を維持支配してきたことを批判し、主体の自由を謳った。従って、その実学は、商人の知恵ではなく、「自ら労して自ら食らう」ための、あるいは自ら考えて行動していくための実践的智慧のすすめだったということになる。(『文明論之概略』)
それは一見するとそれまで(江戸期)の思想にも似ている面もあるが、価値観やものの見方という点で、異なるのだ。
次回にはその一例を挙げよう。
因みに、福沢諭吉は中津藩(大分県中津市)藩士の次男として、大坂・中之島、玉江橋の中津藩蔵屋敷で生まれたが、二歳のときに父が死んで中津に帰った(20歳のとき再び同屋敷に戻り、適塾に通う)。写真は同藩蔵屋敷(現在は朝日放送本社が建設中)近くの福島天満宮。もし諭吉が七五三(数えで三才)を行っていたらここに参拝したはずだという。筆者撮影。
