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<経営>って(7)


一般的には経営学は外来の概念で、第二次大戦まではドイツ経営学、戦後はアメリカ経営学が主流を成したといわれるが、すでに述べたように「経営」という言葉はずっと以前から日本語では用いられてきた。
日本の経営学の基礎を創ったといわれる上田貞次郎(1879―1940)はドイツ、イギリス留学を経て帰国後「商工経営」の講座を設けたが、それは20世紀になってからのことである。
よくこれも言われることだが、日本的経営は村社会の論理に基づく云々というのも、欧米から日本に経営学が紹介された後の、日本企業の実情との対比によって生まれ、共通に理解された認識だと思われる。
けれども、ここでテーマにしているのは、そのずっと前、経営という言葉の深層である。
「経営」は古代から中世までは神事に関わるものとして、近世は国家や地域に関わるものとして、使われていた。それが明治以降は企業に関わり、現在の、企業の経営という理解に変化してきた。それは経済の主体の変遷に応じた変化でもあった。

たとえば古代から中世においては、
*古語拾遺(亮順本訓)〔807〕「其に力を戮(あは)せて、心を一にして天下を経営(イトナム )」
*太平記〔14C後〕二四・天龍寺建立事「仏殿・法堂(ハッタウ)・庫裏〈略〉不日の経営事成て、奇麗の粧交へたり」

近世においては、
*随筆・梧窓漫筆拾遺〔江戸後〕「三河の武士〈略〉元弘・建武の乱にて、尊氏天下を領し給ひ、慶長の乱にて、御当家天下を領し給ふ。三河武士の両度まで、天下を経営したること奇と云ふべし」
*国民新聞‐明治三〇年〔1897〕二月二八日「光誉ある戦勝の収局は三国の干渉を誘致し、東邦独自の経営に対して強国容喙の弊端を開きしは」

といった記述がある。(以上日国オンラインより)
そこには、単なる管理だけでなく、往来や巡り歩きなどの諸活動、創造的工夫、ひたすら励むことといった広い意味が込められてきたといえる。
したがって、「日本的経営」というのは、ただ村社会の経営、などというのでなく、創造的な響きを持ったものだということができる。そこに実践的な知が通っている、ということについてはすでに述べたとおりである。

写真は姫路城。筆者撮影。


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<経営>って(6)


福沢諭吉を追っているあいだ、日本の「私塾」のことが気になっていた。福沢は、生地である中津藩蔵屋敷のあった大阪に成人して戻ってきたが、そこから緒方洪庵の適塾に通うことになるからだ。

私塾というのは、本来、政府や藩などによって設立された公的な教育機関ではなく、特定の知見を持つ人物(リーダー)の周囲に自発的に集まって切磋琢磨する、近世の日本に多く見られた教育機関の形態だ。おおむねそれらは既成概念に疑いを持つ周縁の人々や「異人」によって開かれたが、なかには藩塾でも擬似的な私塾があったようだ。私塾はとくに幕末の変革期に大きな役割を担うことになる、ということはよく知られている。
有名な私塾には、吉田松陰の松下村塾、大塩平八郎の洗心洞塾など、アナーキーな役割を果たしたものがある。他に有名なものにはシーボルトの鳴滝塾がある。

シーボルトはドイツの医師、博物学者で長崎出島のオランダ商館医として来日した。ドイツ人だが、当然オランダ人と偽っていたようで、出島の役人にあなたのオランダ語はちょっと変だと言われると、南ドイツ・バイエル生まれのシーボルトは「自分はオランダの山育ちなので訛っている」と答えていたというが、勿論オランダには山はない。同僚のオランダ人は気にしなかったのであろう。とても、オープンなオランダ人らしいエピソードだ。
シーボルトは来日後、鳴滝塾なる私塾を開いて(1824年)、蘭学、とりわけ医学、博物学を教える。教え子には高野長英などがいた。ちなみにシーボルトは1828年、国外追放になるが、この際、妻の滝、娘のいねとの別れがある。彼女たちの波瀾万丈の物語はここからはじまっていく。

福沢諭吉の学んだ適塾を開いた緒方洪庵は、蘭方医学者で、備中(岡山)出身だが、父の転勤で大阪蔵屋敷に移った。その後江戸でも学ぶが、1836年、長崎に赴く。
ところで、江戸時代の大坂医学界で大秀才と謳われた岡研介という人(本好きで精神に異常をきたし死亡という説あり)がいたが、シーボルトに学び、弟のように可愛がられたという。そのライバルに坪井信道がいて、その信道は緒方洪庵の師となる。そうやって江戸期の蘭学をめぐるソーシャル・キャピタルは形成されていった。
緒方洪庵は長崎ではオランダ商館長ニーマンに学んだともいわれる。ニーマンは医師ではなかったようだ。その後1838年、結婚後大坂・瓦町に適々斎塾、つまり適塾を開いた。一時期、本塾生、外部聴講生外塾生合わせて2、3000人もいたともいわれる。適塾はその後、日本の医学会の総元締のようなものになる。その塾生として、大村益次郎はじめ多くの教え子が集まり、一時期塾頭をつとめたのが福沢諭吉だった。福沢は長崎にも短期遊学したが、その後適塾に入った。
こうした私塾のネットワークを経て、福沢諭吉は中津藩の藩塾を担う。安政5年(1858年)、藩命で蘭学の教師として江戸に上り、蘭学塾を開く。これが後の慶応義塾となった。
慶応4年に、年号にならってネーミングを変更、その後明治23年(1890年)に大学として文学、理財、法律の三科を置いて、最初の市立大学になった。「理財」とは財産のマネジメントで、ここで私塾が経営学とつながった。
この年は実は1890年金融恐慌の年であった。それでもいろいろなエポックがあった。渡辺譲設計の帝国ホテルが開業した。ほかには花王が国産ブランドで初めて高品質な化粧石鹸を発売した年でもあった。

写真は、現在も残る、大阪の適塾跡の一部の建物。筆者撮影。

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