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<feed version="0.3" xml:lang="ja" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><title>知識経営のすすめ</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/" /><modified>2008-05-15T05:07:44+09:00</modified><tagline>このブログは＜知識経営＞周辺のテーマをとりあげます---&amp;lt;知識＞とは「知恵と見識。ある事柄に対する明確な意識と判断」、＜経営＞とは「なわを張り、土台をすえて建物をつくること。物事のおおもとを定めて事業を行なうこと」といいます。（日国オンラインより）＜知識経営＞というのは、人間の営みである知を土台にして事業を行う実践だといえます。</tagline><generator url="http://i-bizlog.com/">Bizlog</generator><entry><title>＜経営＞って（7）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=21748" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=21748</id><issued>2008-03-17T01:00:12+09:00</issued><modified>2008-03-16T16:02:02Z</modified><created>2008-03-16T16:00:12Z</created><summary>

一般的には経営学は外来の概念で、第二次大戦まではドイツ経営学、戦後はアメリカ経営学が主流を成したといわれるが、すでに述べたように「経営」という言葉はずっと以前から日本語では用いられてきた。
日本の経営学の基礎を創ったといわれる上田貞次郎（1879―1940...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<img src="images/EPSN0243.jpg" width="320" height="213" alt="" class="pict" /><br />
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一般的には経営学は外来の概念で、第二次大戦まではドイツ経営学、戦後はアメリカ経営学が主流を成したといわれるが、すでに述べたように「経営」という言葉はずっと以前から日本語では用いられてきた。<br />
日本の経営学の基礎を創ったといわれる上田貞次郎（1879―1940）はドイツ、イギリス留学を経て帰国後「商工経営」の講座を設けたが、それは20世紀になってからのことである。<br />
よくこれも言われることだが、日本的経営は村社会の論理に基づく云々というのも、欧米から日本に経営学が紹介された後の、日本企業の実情との対比によって生まれ、共通に理解された認識だと思われる。<br />
けれども、ここでテーマにしているのは、そのずっと前、経営という言葉の深層である。<br />
「経営」は古代から中世までは神事に関わるものとして、近世は国家や地域に関わるものとして、使われていた。それが明治以降は企業に関わり、現在の、企業の経営という理解に変化してきた。それは経済の主体の変遷に応じた変化でもあった。<br />
<br />
たとえば古代から中世においては、<br />
*古語拾遺（亮順本訓）〔８０７〕「其に力を戮（あは）せて、心を一にして天下を経営（イトナム ）」<br />
*太平記〔１４Ｃ後〕二四・天龍寺建立事「仏殿・法堂（ハッタウ）・庫裏〈略〉不日の経営事成て、奇麗の粧交へたり」<br />
<br />
近世においては、<br />
*随筆・梧窓漫筆拾遺〔江戸後〕「三河の武士〈略〉元弘・建武の乱にて、尊氏天下を領し給ひ、慶長の乱にて、御当家天下を領し給ふ。三河武士の両度まで、天下を経営したること奇と云ふべし」<br />
*国民新聞‐明治三〇年〔１８９７〕二月二八日「光誉ある戦勝の収局は三国の干渉を誘致し、東邦独自の経営に対して強国容喙の弊端を開きしは」<br />
<br />
といった記述がある。（以上日国オンラインより）<br />
そこには、単なる管理だけでなく、往来や巡り歩きなどの諸活動、創造的工夫、ひたすら励むことといった広い意味が込められてきたといえる。<br />
したがって、「日本的経営」というのは、ただ村社会の経営、などというのでなく、創造的な響きを持ったものだということができる。そこに実践的な知が通っている、ということについてはすでに述べたとおりである。<br />
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写真は姫路城。筆者撮影。<br />
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]]></content></entry><entry><title>＜経営＞って（6）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=21747" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=21747</id><issued>2008-03-04T00:48:16+09:00</issued><modified>2008-03-05T15:02:52Z</modified><created>2008-03-03T15:48:16Z</created><summary>

福沢諭吉を追っているあいだ、日本の「私塾」のことが気になっていた。福沢は、生地である中津藩蔵屋敷のあった大阪に成人して戻ってきたが、そこから緒方洪庵の適塾に通うことになるからだ。

私塾というのは、本来、政府や藩などによって設立された公的な教育機関...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<img src="images/L1002130.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
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福沢諭吉を追っているあいだ、日本の「私塾」のことが気になっていた。福沢は、生地である中津藩蔵屋敷のあった大阪に成人して戻ってきたが、そこから緒方洪庵の適塾に通うことになるからだ。<br />
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私塾というのは、本来、政府や藩などによって設立された公的な教育機関ではなく、特定の知見を持つ人物（リーダー）の周囲に自発的に集まって切磋琢磨する、近世の日本に多く見られた教育機関の形態だ。おおむねそれらは既成概念に疑いを持つ周縁の人々や「異人」によって開かれたが、なかには藩塾でも擬似的な私塾があったようだ。私塾はとくに幕末の変革期に大きな役割を担うことになる、ということはよく知られている。<br />
有名な私塾には、吉田松陰の松下村塾、大塩平八郎の洗心洞塾など、アナーキーな役割を果たしたものがある。他に有名なものにはシーボルトの鳴滝塾がある。<br />
<br />
シーボルトはドイツの医師、博物学者で長崎出島のオランダ商館医として来日した。ドイツ人だが、当然オランダ人と偽っていたようで、出島の役人にあなたのオランダ語はちょっと変だと言われると、南ドイツ・バイエル生まれのシーボルトは「自分はオランダの山育ちなので訛っている」と答えていたというが、勿論オランダには山はない。同僚のオランダ人は気にしなかったのであろう。とても、オープンなオランダ人らしいエピソードだ。<br />
シーボルトは来日後、鳴滝塾なる私塾を開いて(1824年）、蘭学、とりわけ医学、博物学を教える。教え子には高野長英などがいた。ちなみにシーボルトは1828年、国外追放になるが、この際、妻の滝、娘のいねとの別れがある。彼女たちの波瀾万丈の物語はここからはじまっていく。<br />
<br />
福沢諭吉の学んだ適塾を開いた緒方洪庵は、蘭方医学者で、備中（岡山）出身だが、父の転勤で大阪蔵屋敷に移った。その後江戸でも学ぶが、1836年、長崎に赴く。<br />
ところで、江戸時代の大坂医学界で大秀才と謳われた岡研介という人（本好きで精神に異常をきたし死亡という説あり）がいたが、シーボルトに学び、弟のように可愛がられたという。そのライバルに坪井信道がいて、その信道は緒方洪庵の師となる。そうやって江戸期の蘭学をめぐるソーシャル・キャピタルは形成されていった。<br />
緒方洪庵は長崎ではオランダ商館長ニーマンに学んだともいわれる。ニーマンは医師ではなかったようだ。その後1838年、結婚後大坂・瓦町に適々斎塾、つまり適塾を開いた。一時期、本塾生、外部聴講生外塾生合わせて2、3000人もいたともいわれる。適塾はその後、日本の医学会の総元締のようなものになる。その塾生として、大村益次郎はじめ多くの教え子が集まり、一時期塾頭をつとめたのが福沢諭吉だった。福沢は長崎にも短期遊学したが、その後適塾に入った。<br />
こうした私塾のネットワークを経て、福沢諭吉は中津藩の藩塾を担う。安政５年（1858年）、藩命で蘭学の教師として江戸に上り、蘭学塾を開く。これが後の慶応義塾となった。<br />
慶応４年に、年号にならってネーミングを変更、その後明治23年（1890年）に大学として文学、理財、法律の三科を置いて、最初の市立大学になった。「理財」とは財産のマネジメントで、ここで私塾が経営学とつながった。<br />
この年は実は1890年金融恐慌の年であった。それでもいろいろなエポックがあった。渡辺譲設計の帝国ホテルが開業した。ほかには花王が国産ブランドで初めて高品質な化粧石鹸を発売した年でもあった。<br />
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写真は、現在も残る、大阪の適塾跡の一部の建物。筆者撮影。<br />
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]]></content></entry><entry><title>＜経営＞って（5）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=21746" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=21746</id><issued>2008-02-08T14:57:54+09:00</issued><modified>2008-02-08T05:58:01Z</modified><created>2008-02-08T05:57:54Z</created><summary>

福沢諭吉の経営学を追っている。
その「実学」は、ただ実用主義なのでなく、現実の状況において最善を選択する「現実学」に近いと紹介した。

その背後にある「哲学」という観点から、丸山真男は、福沢諭吉が、欧米にあって日本にないものとして洞察したのは物理学...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<img src="images/L1000431.jpg" width="320" height="180" alt="" class="pict" /><br />
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福沢諭吉の経営学を追っている。<br />
その「実学」は、ただ実用主義なのでなく、現実の状況において最善を選択する「現実学」に近いと紹介した。<br />
<br />
その背後にある「哲学」という観点から、丸山真男は、福沢諭吉が、欧米にあって日本にないものとして洞察したのは物理学と独立精神だ、と指摘している。福沢が批判したのは、表層的な儒教ではなく、社会に潜在していた儒教的なイデオロギーだった。それがよく現れているのが「自然」についての考え方に関してである。<br />
<br />
福沢も、福沢が批判した儒教的精神も、共に自然の法則を説いている。<br />
福沢の場合、それは次のような一節に現れている。「<a href="http://www.amazon.co.jp/新訂-福翁自伝-岩波文庫-福沢-諭吉/dp/4003310225/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=gateway&qid=1200922830&sr=8-1" target="_blank">福翁自伝</a>」〔１８９９〕によれば、「元来私の教育主義は自然の原則に重きを置て、数と理と此二つのものを本にして、人間万事有形の経営は都（すべ）てそれから割出して行きたい」としている。丸山の指摘のように、数理のように事物の相補的な側面を共に見る思考の方法だが、その背後にあるのが自然観だということになる。福沢の事業経営はこうした自然の原則に則っている。<br />
<br />
しかし、こうした自然に則るという点では儒教も同じだ。<br />
これに対して丸山は、儒教の自然観は自然の内に上下や貴賤という関係を見るものだという。自然のあるように、士農工商や貧富がある、というロジックだ。結局こうした、社会に染み付いたロジックがイデオロギーとしてあったことが、江戸期から明治期への最大の障害だということを福沢は批判したのだったという。<br />
<br />
日本の経営ではよく「流れに乗る」ことが大事だという。こうした感覚は欧米企業にくらべ日本企業の方が柔軟だ。しかし、これは福沢が批判した儒教のにおいがする。流れに乗るといっても、それがただ趨勢や体制に流されているのでは、意味がない。<br />
世の中、変革の時代とは言っても変革期以外の時間が９割だ。それゆえ「予測ビジネス」が「時折」誤っても生きながらえている。日々の大方は昨日と同じ時間が流れている。だから鎖国の特はこういうイデオロギーでよかった。しかし問題は１割の変革の時期にどう乗るかである。<br />
いつも通りの日常を肯定して「流れに乗っている」といっても、それは惰性でしかない。いざというときにも「昨日の通り」「前例の通り」と言っている間に時間が過ぎ、知的には死に至ることになる。<br />
<br />
こうした日本にありがちの感覚は、福沢の、事物の実相を見抜いて最善の手を尽くすためにその背後に自然の秩序原則を考える、というのとはまったく違うのである。<br />
<br />
福沢は自身の実学という方法で生きた。福翁自伝では人生の意義について「官界に力を尽して政府人と共に文明の国事を経営するこそ本意ではないか」と老境を語っている。しかし、こうした反面、学問をいかに人間生活に結合させるか、との実践的態度に支えられた実学は、世の中では逆に廃れていった。<br />
<br />
ところで福沢諭吉の自然観はどこから来たのか、知らない。しかし晩年福沢は故郷中津藩の景勝地、耶馬溪に遊んで気に入り、開発を阻止するために私財を投じている。中津藩は、古くは帰化人の里で、北九州最大の神社，宇佐神宮の元宮があったとも言われている。儒教とは異なる、こうした古代からの自然観が影響しているようにみえてならない。<br />
写真は宇佐神宮の境内（筆者撮影）。<br />
]]></content></entry><entry><title>＜経営＞って（4）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19977" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19977</id><issued>2008-01-20T22:25:38+09:00</issued><modified>2008-01-20T13:29:13Z</modified><created>2008-01-20T13:25:38Z</created><summary>

福沢諭吉の経営学とはどんなものだったのだろうか？

福沢諭吉は、欧米に学べとも言ったし、晩年に向けては日本の独自性を主張した、といったが、実は当時から、しばしば一見では矛盾するようなことを述べて批判されていた。その歴史的な評価もいろいろだ。けれども...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<img src="images/L1002074.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
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福沢諭吉の経営学とはどんなものだったのだろうか？<br />
<br />
福沢諭吉は、欧米に学べとも言ったし、晩年に向けては日本の独自性を主張した、といったが、実は当時から、しばしば一見では矛盾するようなことを述べて批判されていた。その歴史的な評価もいろいろだ。けれどもそれは、矛盾でなく、「楯（対象）の両面を見る」という福沢独自の「知の方法」だと喝破したのは丸山真男だった（<a href="http://www.amazon.co.jp/福沢諭吉の哲学―他六篇-岩波文庫-丸山-真男/dp/4003810414/ref=sr_1_6?ie=UTF8&s=gateway&qid=1200835005&sr=8-6" target="_blank">『福沢諭吉の哲学』</a>）。<br />
<br />
「学問のすすめ」を著して以来、「実学」のイメージが定着していったが、福沢諭吉の実学の本質は単なる処世術的なものではなく、事物の両面を見、すなわち「状況判断に基づいて」、「緊急な課題を優先的に選択する」という方法（論）だ、といったのである。つまり、現在の状況では何が相対的に大事な課題かということを考えて、そこから自分の「役割」を考えていくということである。それは、アリストテレス以来の実践的智慧(practical wisdom)に通ずる方法（論）である。それは、建前や論理分析に依存せず、あくまでも現実と普遍を行き来しつつ最善の手段を選び取ることであり、歴史的に偉大なリーダーシップの知のあり方そのものでもある。（これについては<a href="http://www.amazon.co.jp/美徳の経営-野中-郁次郎/dp/4757121970/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=books&qid=1200835676&sr=8-1" target="_blank">『美徳の経営』</a>を参照して欲しい）<br />
<br />
こうした視点から福沢諭吉の「経営（論）」も考えてゆく必要がある。<br />
そもそも世間胸算用のような、商人の知は江戸期を通じてあったわけだから、とりたててそれらを「実学」として重要だということはない。<br />
丸山真男の指摘によれば、福沢諭吉は江戸期を通じての儒教的な価値観を批判し、人間（中心）的な価値観を提示した。つまり、儒教的な学問によって社会を維持支配してきたことを批判し、主体の自由を謳った。従って、その実学は、商人の知恵ではなく、「自ら労して自ら食らう」ための、あるいは自ら考えて行動していくための実践的智慧のすすめだったということになる。（<a href="http://www.amazon.co.jp/文明論之概略-岩波文庫-福沢-諭吉/dp/4003310217/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=gateway&qid=1200835087&sr=8-1" target="_blank">『文明論之概略』</a>）<br />
<br />
それは一見するとそれまで（江戸期）の思想にも似ている面もあるが、価値観やものの見方という点で、異なるのだ。<br />
次回にはその一例を挙げよう。<br />
<br />
因みに、福沢諭吉は中津藩（大分県中津市）藩士の次男として、大坂・中之島、玉江橋の中津藩蔵屋敷で生まれたが、二歳のときに父が死んで中津に帰った（20歳のとき再び同屋敷に戻り、適塾に通う）。写真は同藩蔵屋敷（現在は朝日放送本社が建設中）近くの福島天満宮。もし諭吉が七五三（数えで三才）を行っていたらここに参拝したはずだという。筆者撮影。<br />
]]></content></entry><entry><title>＜経営＞って（3）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19943" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19943</id><issued>2008-01-18T01:37:00+09:00</issued><modified>2008-01-17T22:53:41Z</modified><created>2008-01-17T16:37:00Z</created><summary>＜知識経営の源流＞に話が逸れていってしまったが、日本語としての「経営」に筋を戻そう。
Managementの訳語、翻訳された概念としてではなく、日本語にすでにあった「経営」（そのルーツはとても古い、少なくとも7世紀、つまり恐らく中国にルーツがある）。明治以降は、...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[＜知識経営の源流＞に話が逸れていってしまったが、日本語としての「経営」に筋を戻そう。<br />
Managementの訳語、翻訳された概念としてではなく、日本語にすでにあった「経営」（そのルーツはとても古い、少なくとも7世紀、つまり恐らく中国にルーツがある）。明治以降は、急速にその意味を増した。あるいは意味を変えていった。しかし、いまでも、「経営」はまだどこかその伝統を匂わせている。だから、「日本的経営」などというときには、単にmanagementの日本バージョンを言っているのでない。どちらかというと、もっと深い背景を持ったことを示唆する。<br />
少なくとも、そのニュアンスは、いまわれわれが言うマネジメントとは随分違う。大体、マネジメントという米国経営学の概念が言われるようになったのは第二次世界大戦後で、明治以降の戦前まではドイツ経営学が主流だった。ドイツ経営学の「経営」とはBetriebである。これは「企業」とか「事業」とかを意味している。Managementが「操作」「管理」を意味するのとは違い、Betriebは元の日本語の経営、つまり「なわを張り、土台をすえて建物をつくること」「物事のおおもとを定めて事業を行なうこと」といった意味により近い。恐らく、それで経営という訳語が適用されたのではないかと思う。<br />
<br />
さて、明治初期に「経営」の啓蒙に関わったのは、すでに紹介したように福沢諭吉などである。福沢は、渡米経験があり、初期には米国に大きく影響を受けた。晩年には日本の独自性を謳うようになるが、「人の上に人をつくらない」という考えは、米国合衆国憲法からの借用だ。<br />
<br />
「アメリカ的経営から学ぶべきところと日本企業が培ってきた長所をうまく生<br />
かし、新しい経営を創造しよう」。今こんなことを言われても、珍しくないが、最初にこういったことを言ったのは福沢諭吉だ。<br />
<br />
「人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」<br />
この<a href="http://www.amazon.co.jp/学問のすすめ-岩波文庫-福沢-諭吉/dp/4003310233/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1200608809&sr=1-1" target="_blank">「学問のすすめ」</a>は、学問（知識）によって理想と現実のギャップを埋め、あるべき人生を送ることを指南している。そして福沢自身、知識を生きる礎とした。<br />
<br />
実際、福沢は自らも事業を興した。手がけた三大事業は「慶応義塾」「時事新報」「交詢社」だ。 「慶応義塾」は教育、「時事新報」は新聞（メディア）、「交詢社」（倶楽部、社交サービス）である。すなわち、いずれも知識産業であった。<br />
因みに、『時事新報』は福沢諭吉の創刊した日刊新聞で、創刊明治15年。一時期「日本一」の高級紙になったが、関東大震災の際に多くの資産を失い、その後も時代とともに廃れ、昭和11年末に幕を閉じた。戦後復刊されたが、長くは続かなかった。<br />
<br />
<br />
サンフランシスコのベイ・ブリッジ。1936年に架けられた橋だから福沢諭吉が咸臨丸で太平洋を渡りサンフランシスコ湾にたどり着いた時（1860年）には当然まだない。筆者撮影。<br />
<img src="images/L1030176.jpg" width="320" height="180" alt="" class="pict" />]]></content></entry><entry><title>知識経営の源流（９）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19942" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19942</id><issued>2007-12-29T23:43:50+09:00</issued><modified>2007-12-30T02:38:02Z</modified><created>2007-12-29T14:43:50Z</created><summary>「オーストリア・ハンガリー　　ウィーン・ブダペスト1918-1933」
知識経済・経営の源流に関わった人々は他にも多い。紹介しきれなかった人々には下記がある。

シュンペーター[1883―1950]：マルクスが死に、ケインズが生まれたのと同じ1883年に、現チェコ領モラビアの...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[「オーストリア・ハンガリー　　ウィーン・ブダペスト1918-1933」<br />
知識経済・経営の源流に関わった人々は他にも多い。紹介しきれなかった人々には下記がある。<br />
<br />
シュンペーター[1883―1950]：マルクスが死に、ケインズが生まれたのと同じ1883年に、現チェコ領モラビアのトリューシュで生まれた。後にウィーン大学法学部に入学。オーストリア（経済）学派を創設し、そのアイデアはフォン・ミーゼス[1881―1973]、フォン・ハイエクに受け継がれる。創造的破壊、イノベーションを提唱する。その後、渡米しハーバード大学の教授となり、サミュエルソンらの師となる。<br />
<br />
カール・マンハイム[1893―1947]：知識社会学の確立者で、ブダペスト生まれ。ブダペスト大学哲学科を卒業後、ドイツへ留学。1918年『認識論の構造分析』によってブダペスト大学から学位を得る。その後1933年に英国に亡命。<br />
<br />
フォン・ハイエク[1899―1992]：オーストリア学派の代表的経済学者。1930年代にウィーン大学からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス（LSE）に招かれた。ノーベル経済学賞。<br />
<br />
カール・ポラニー[1886―1964]：すでに挙げた暗黙知の提唱者、マイケル・ポラニーの兄。<a href="http://www.amazon.co.jp/大転換―市場社会の形成と崩壊-カール・ポラニー/dp/4492370293/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1198938963&sr=8-1" target="_blank">『大転換−市場社会の形成と崩壊』</a>を著した経済人類学の祖である。<br />
<br />
カール・ポパー[1902―94]：ウィーン生まれ。哲学者。ハイエク同様、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス（LSE）教授を歴任。ポパーについてはここで触れる必要もないだろう。<br />
<br />
フリッツ・マッハルプ[1902―83]：知識産業論を表したマッハルプは、ウィーン郊外に生まれ、1923年に20歳の若さでウィーン大学から学位を授与されたが、1933年に渡米し、その後帰化。<br />
<br />
ピーター・ドラッカー[1909―2005]：知識の重要性、知識労働者の概念を提唱した。ドラッカーもウィーンのギムナジウムを卒業後、ドイツを経てロンドンに移っている。ポラニー家と交流があったことは述べたが、オーストリアの精神科医、ジークムント・フロイト[1856―1939]もドラッカー家と交流があったという。<br />
<br />
<br />
こういう流れを見ていると、知識経営や経済のアイデアの種は、オーストリア・ハンガリーから発し、英国を経由して米国、あるいは日本に広がったように見える。<br />
この中でドラッカーは、図にあるように知識経営をいまに広げるまさにハブの役割を担った。<br />
<br />
<a href="images/drucker.jpg" target="_blank"><img src="images/drucker.jpg.400px.jpg" width="400" height="226" alt="" class="pict" /></a><br />
<br />
こうした知の流れは戦後もしばらく続く。<br />
ヘッジファンドの父、ジョージ・ソロス[1930-]はブダペスト生まれ。ハンガリー名「シュヴァルツ・ジェルジ」として生まれる。知識経営という流れではなく、（自称）市場原理主義者。ＬＳＥで学んで米国で投機家となる。<br />
インテルのアンディ・グローブ[1936-]もブダペスト生まれだが、米国に渡ったのは1956年のハンガリー動乱時だ。<br />
<br />
<img src="images/L1001818.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
ブダペスト、中央市場のなかのレストランの前のバイオリン弾き。筆者撮影。市場なのに何故か物価は街より高かった。<br />
]]></content></entry><entry><title>知識経営の源流（８）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=20227" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=20227</id><issued>2007-12-24T00:17:54+09:00</issued><modified>2007-12-23T15:18:00Z</modified><created>2007-12-23T15:17:54Z</created><summary>

都市においては、国家や人種を超えたコラボレーションが起きる。都市はカオティックで、危険な部分も孕んでいるが、社会的創造性の温床ともなる。

ポラニー家は「ユダヤ人」ではあるが、実はユダヤ人とは本質的には（日本の辞書には載ってないが）、ユダヤ人の母親...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<img src="images/L1001664.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
<br />
都市においては、国家や人種を超えたコラボレーションが起きる。都市はカオティックで、危険な部分も孕んでいるが、社会的創造性の温床ともなる。<br />
<br />
ポラニー家は「ユダヤ人」ではあるが、実はユダヤ人とは本質的には（日本の辞書には載ってないが）、ユダヤ人の母親（あるいは父親も含む場合があるが）から生まれた者をいうのであって（したがってイエスもユダヤ人）、ユダヤ人種というのが継承されているのではない。少なくともユダヤ人はそう言う。ところで、ではその母親は？そのまた母親は？となると、そのあり方を決めるのは伝統としかいえない。<br />
ポラニー兄弟の父親は挫折したとはいえ鉄道王となり、ヴィトゲンシュタインの父親は技術者から身を起こして鉄鋼業で大成功した。しかし彼らは「ユダヤの教え」を守って成功したわけではない。ヴィトゲンシュタインの祖父は改宗ユダヤ人であったし、ポラニー家のアパートメントは、ブダペストのドハーニ街のシナゴーグよりも、聖イシュトバーン大聖堂に近いメインストリート、アンドラーシ通りにあった。これらが象徴しているような気がする。つまり、彼らは確かにその伝統的なユダヤ風教育にも影響を受けただろうが、むしろシュンペーターのいう企業家（アントレプルナー）に近かった。というより、シュンペーターは彼らのような人々の台頭するのを目の当たりにしてアントレプルナーを思ったのではないか。<br />
アントレプルナーは本来イノベーションを持続する人々として構想された。しかし、現実には２０世紀において、企業は大企業化・大組織化の道を辿り、その過程でそういった創造的性格を失っていった。だからシュンペーターはそれを見て失意のうちに死んだ、ともいう。（シュンペータについては根井 雅弘『<a href="http://www.amazon.co.jp/シュンペーター―企業者精神・新結合・創造的破壊とは何か-根井-雅弘/dp/4062097818/ref=sr_1_11?ie=UTF8&s=books&qid=1198422940&sr=8-11" target="_blank">シュンペーター―企業者精神・新結合・創造的破壊とは何か</a>』をみてほしい）<br />
<br />
いずれにせよ、20世紀初頭、アントレプルナーを生んだのは、都市の活気、カフェのような場に集まる創造的な人々の交流だったのだ。同時期、ドイツではワイマール共和国が生まれていた。<br />
当時のワイマールを代表するのはバウハウスだ。バウハウスにも多くの多彩な人物が集まった。モンタージュ手法で有名なハンガリー生まれの写真芸術家モホリ・ナギもその一人だ。バウハウスは建築とデザインに画期的な視点と方法を持ち込んだ。それは当然産業とも結びついた。<br />
この時代、イノベーションはこうして現実化していった。それはまさに知識経営の原初的形態であった。しかしブダペストもワイマールも1933年のホロコーストによって打ち砕かれてしまった。しかし、人間の創造的願望は死ななかった。このようなスピリットが受け継がれたのはシリコンバレーのような場所だと思う。<br />
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写真はブダペストの聖イシュトバーン大聖堂の内部。筆者撮影。<br />
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]]></content></entry><entry><title>知識経営の源流（７）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19941" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19941</id><issued>2007-12-17T23:42:47+09:00</issued><modified>2007-12-21T23:04:55Z</modified><created>2007-12-17T14:42:47Z</created><summary>

果して何故この時期（1918-1933）、これだけ多くの天才がオーストリア＝ハンガリーという場に輩出したのだろうか？
ポラニーやゲーデル、フォン・ノイマンはユダヤ人であるということから民族的なものもあるかとも思わせるが、その論ではナチズムの人種主義の裏返し...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<img src="images/L1001640.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
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果して何故この時期（1918-1933）、これだけ多くの天才がオーストリア＝ハンガリーという場に輩出したのだろうか？<br />
ポラニーやゲーデル、フォン・ノイマンはユダヤ人であるということから民族的なものもあるかとも思わせるが、その論ではナチズムの人種主義の裏返しだ。<br />
<br />
むしろ、僕はこれは都市の力だと思う。<br />
ブダペスト＝ウィーンは、当時世界レベルの知識都市（いまナレッジ・シティはホットなテーマだ <a href="http://www.amazon.co.uk/Knowledge-Cities-Approaches-Experiences-Perspectives/dp/0750679417" target="_blank">Knowledge Cities</a>）だった。<br />
そもそもブダペストは中欧の要地で、古来、他民族の占領の対象となり、亡命先だった。民族構成は多様であり、「多元主義的」なメルティング・ポットとなっていた。<br />
<br />
帝国の中枢は有数の都市・工業化地域でもあった。多くの人々が集まってきた。たとえばウィーンの人口は1910年には200万人を超えていた（現在は156万人）。ブダペストの人口は1910年に88万人、1944年には138万人に達していた（現在は177万人）。両市合わせて300-400万人の規模であったと思われる。<br />
一方、ベルリンは1900年に270万人、その後1943年に人口は史上最高の448万9700に達した。ちなみに戦前の東京は1932年に区が大合同し大東京となり、人口566万人。ニューヨークは1900年には300万人強だったが、1930年には欧州からの移民で700万人と急増した。<br />
<br />
1933年にはじまるホロコーストのはじまりを予感して、移民の大波が起きたが、ブダペストを中心とするユダヤ系の難民を吸収して知のメルティング・ポットとなったのはニューヨークであり、その意味でニューヨークはブダペストの正当な後継者なのだ。<br />
<br />
因みに人口300万人規模の都市は、都市の多様な活気と同時にと人的繋がりが適度に保たれる、「<a href="http://www.amazon.co.jp/スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法-ダンカン-ワッツ/dp/4484041162/ref=pd_bbs_sr_2?ie=UTF8&s=books&qid=1197902797&sr=8-2" target="_blank">スモールワールド</a>性」を享受できるのではないか。当時のブダペストは、十分に新しい出会い・知的刺激があるとともに、カフェなどに行けば誰かハブになるキーマンに会える、そんな環境だったのではなかったろうか。<br />
ル・コルビュジェが1922年に掲げた「300万人都市」構想というのもあったが、都市は人類的に見た際の知識創造の場であり、適度な大きさが必要なのだ。かつてはアレクサンドリアの30万人、バグダッドの100万人が徒歩や動物による交通の時代の都市規模だった。いまその規模はテクノロジーによって大きくなっている。しかし、その規模を超えると、今度は規模の弊害、たとえば孤立化などが大きくなる。<br />
現在周辺地区を含めて300万人サイズの都市・地域としてはシリコンバレー（地域250万人）、ボストン地域（都市圏として500万人）、日本では名古屋・横浜・大阪だ。近代においては産業革命をリードした19世紀末ロンドンがこの規模の都市だった。<br />
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写真はブダペストのブダ地区丘陵に立つ王宮から有名な「鎖橋」を介してペスト地区を眺めている。中央部右手の尖塔は聖イシュトバーン聖堂。筆者撮影。<br />
]]></content></entry><entry><title>知識経営の源流（６）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19940" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19940</id><issued>2007-12-11T15:14:04+09:00</issued><modified>2007-12-11T14:12:06Z</modified><created>2007-12-11T06:14:04Z</created><summary>再びウィーンへ。
20世紀最大の哲学者とも言われるルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン[1889-1951]もウィーン生まれで、さまざまな遍歴の後、再びこの時期ウィーンにあった。
という観点からのヴィトゲンシュタインへの関心は、よく知られているよ...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[再びウィーンへ。<br />
20世紀最大の哲学者とも言われるルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン[1889-1951]もウィーン生まれで、さまざまな遍歴の後、再びこの時期ウィーンにあった。<br />
<知識>という観点からのヴィトゲンシュタインへの関心は、よく知られているように、既存の哲学の限界を言語という問題として切り裂いてみせたことにある。しかし、それ以上に興味深いのは、彼自身の人生の創造的姿勢にある。<br />
ヴィトゲンシュタインは、世の中の動きなど目に入らず、自分の真と思うことに沿って行動した。たとえば、相続したかなりの額の財産を投げうって、芸術家達を支援したことがあった。まさに哲学者的だと思う。建築史上ル・コルビュジェほどの意義を持つウィーンの建築家、装飾否定主義で知られる建築家、アドルフ・ロースがその一人で、後も二人の間には親交があったようだ。<br />
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写真はロースの作品。王宮前広場のロースハウス[1911]。装飾を廃し、当時大きな物議を醸した。筆者撮影。<br />
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<img src="images/L1001715.jpg" width="320" height="210" alt="" class="pict" /><br />
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1926年頃、ヴィトゲンシュタインはロースの弟子を介して自身の姉（ストーンボロー夫人）の家の設計に関わることになる。後に「家のかたちの論理学」と呼ばれたこの家について、ヴィトゲンシュタインはアップルのスティーブ・ジョブズ並のこだわりを発揮している。たとえば完成間近に屋根を3センチ上げて欲しい、とか。<br />
当時30代後半、恐らく精神的に落ち込んでいたヴィトゲンシュタインにとって、このプロジェクトは一種のセラピーになったはずだ。自分の思考や知識を形態に変換する、人工物を創作するという創造的行為は、単なる論理分析な知的作業とは異なる経験を意味するが、それは従来は手仕事職人のものだった。ここで建築と哲学、知識が結びついたといえる。同じウィーンの現代建築家（社会的芸術家というべきか）のフンデルトヴァサーに通ずるものがある（ただしこちらは装飾満載の感だが）。<br />
<br />
さて、この通称「ヴィトゲンシュタイン・ハウス」（ストーンボロー邸）はウィーンに現存していて、現在はブルガリア文化研究所の施設として保存・使用されている。実際に見ていると独特の哲学的存在感が感じられる。<br />
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写真はヴィトゲンシュタイン・ハウス。ロース以上に装飾を配した建築だ。筆者撮影。<br />
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<img src="images/L1001736.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
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]]></content></entry><entry><title>知識経営の源流（５）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=20034" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=20034</id><issued>2007-12-09T10:26:16+09:00</issued><modified>2007-12-10T07:07:30Z</modified><created>2007-12-09T01:26:16Z</created><summary>ゲーデルの不完全性定理（数学の形式的体系の中では自己の矛盾を証明できない）とポラニーの暗黙知の概念にはどうしても共通性を感じてしまう。
ポラニーは、形式知の不完全性を言った。
「生化学者、医師、画商、繊維業者は彼らの専門的知識を部分的には教科書から得る...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[ゲーデルの不完全性定理（数学の形式的体系の中では自己の矛盾を証明できない）とポラニーの暗黙知の概念にはどうしても共通性を感じてしまう。<br />
ポラニーは、形式知の不完全性を言った。<br />
「生化学者、医師、画商、繊維業者は彼らの専門的知識を部分的には教科書から得るが、これらのテキストは五感を通じた訓練を伴わなければ何の役にも立たない。」<br />
また、科学の、科学のためだけの正当化を否定した。つまり形式知（言語化されている知識、たとえば数学式や科学式）にはそれ自身では限界があるのだ。<br />
<br />
では、経営学はどうだろうか？経営学は正直言ってありとあらゆる概念の寄せ集めだ。「経営（学）はジャングル」だとも言うし、戦略論のヘンリー・ミンツバーグにとっては戦略は<a href="http://www.amazon.co.jp/戦略サファリ―戦略マネジメント・ガイドブック-Best-solution-ヘンリー-ミンツバーグ/dp/4492530649/ref=sr_1_4?ie=UTF8&s=books&qid=1197164079&sr=8-4" target="_blank">「サファリ」</a>だ（少なくとも10個の戦略論のスクールがあり、ちょうどサファリのようにこれらを狩りながら戦略を実践する）。ミンツバーグは<a href="http://www.amazon.co.jp/MBAが会社を滅ぼす-マネジャーの正しい育て方-ヘンリー・ミンツバーグ/dp/4822245160/ref=pd_bbs_sr_2?ie=UTF8&s=books&qid=1197164038&sr=8-2" target="_blank">「ＭＢＡは会社を滅ぼす」</a>といった。経営学を形式知の体系でとらえてはいけない。当然ポラニーの命題を適用すれば、「経営者は彼らの専門的知識を部分的には教科書やＭＢＡコースから得るが、これらのテキストや形式知は五感を通じた実践を伴わなければ何の役にも立たない」のだ。<br />
<br />
暗黙知の役割は、経営者にとっても、経営学者にとっても重要な位置付けを担っている。もちろん、現場で知を生みだし、イノベーションに邁進するナレッジワーカーにとっては、単にロジカル・シンキングだけで分析や計画立案をすることの落し穴を示唆している。<br />
<br />
知識の本質はそこにあるもの（形式知やリソース）ではなく、常に暗黙知を生きる状態(Tacit Knowing)やプロセス、あるいは知の方法論である。<br />
<br />
こうしたモノの見方が生まれてきたのは何故か。それは20世紀初頭、科学偏重に邁進していった西欧・米の知のスクールに対する、中欧部（オーストリア・ハンガリーを中心とする）の知の伝統が大きな警鐘を鳴らしたものとも見えるのである。<br />
<br />
これは東洋の知にもつながる。般若(パンニャー)は仏教で言う智慧だが、般若は、識（ヴィジュニャーナ）とは違う。識は、客観的・分析的な知（形式知）である。般若心経にある「無色　無受・想・行・識」（これらのもの--五蘊は一切ない）の「識」だ。識を超えて実践知とする知が般若である。<br />
<br />
たとえば、暗黙知のあり様は言語化できないのだが、仏像の創作などによって伝わる（ような気がする）。<br />
<br />
写真は右手に智慧を象徴する宝剣を持つ文殊菩薩（京都国立博物館、筆者撮影）。<br />
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<img src="images/L1000515.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
]]></content></entry><entry><title>知識経営の源流（４）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19890" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19890</id><issued>2007-12-08T05:53:00+09:00</issued><modified>2007-12-10T07:20:12Z</modified><created>2007-12-07T20:53:00Z</created><summary>現代の知識の時代の震源地となった20世紀初頭のオーストリア・ハンガリー。
この時期の登場人物としてもう一人忘れてならないのはクルト・ゲーデル[1906―78]だ。不完全性定理で有名なゲーデルは、「自然数論を含む数学の形式的体系の無矛盾は、その形式的体系の中では証...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[現代の知識の時代の震源地となった20世紀初頭のオーストリア・ハンガリー。<br />
この時期の登場人物としてもう一人忘れてならないのはクルト・ゲーデル[1906―78]だ。不完全性定理で有名なゲーデルは、「自然数論を含む数学の形式的体系の無矛盾は、その形式的体系の中では証明できない」ということを示し、真理の証明の不可能性を浮かび上がらせた。下世話な解釈だが、自分（あるいはシステム自身）が正しいかどうかは、自分（システム）内部のロジックでは証明できない、ということをゲーデルは示した。つまり、自身の正当性を証明できる完全数学はない。知識は不完全なものなのだ。とすれば、科学万能ではない世界、人間の創造性という余地が大きく見える（完全私的解釈）。ゲーデル関連書は多いが、<a href="http://www.amazon.co.jp/ゲーデルの哲学―不完全性定理と神の存在論-講談社現代新書-高橋-昌一郎/dp/406149466X/ref=sr_1_6?ie=UTF8&s=books&qid=1197059740&sr=1-6" target="_blank">『ゲーデルの哲学』（高橋 昌一郎 ）</a>が数学理論の説明とゲーデルの生きた背景とのバランスがとれていた。<br />
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こうした時代、それまでの近代科学や実証哲学への批判から、認識自体を覆すような知の革命が起きていた。その舞台のひとつがブダペストやウィーンのような場所だった。<br />
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ゲーデルは現チェコのブルノに生まれたが、ウィーン大学で数学と物理を学んだ。ゲーデルのある種ライバルで、風変わりな天才、現代のコンピュータの父となるジョン・フォン・ノイマン[1903―57]も、ハンガリー名、「ナイマン・ヤーノシュ」としてブダペストに生まれた。ブダペスト大学で最初学ぶが、後にドイツに向う。そこでノイマンはゲーデルに遭遇し「不完全性定理」を世に出すキーマンとなる。<br />
<br />
20世紀初頭のオーストリア・ハンガリーは、こうした実証的科学や要素還元主義からの思考の転回の時期であり、それが科学や数学、哲学の世界で同時に起きていった。ただし、その波は、第二次大戦を経て、20世紀末になるまで経済や経営の世界では明らかにならず、「暗黙の次元」でありつづけた。<br />
<br />
ウィーンのカフェは有名だが、写真は建築家アドルフ・ロース[1870-1933]設計の「アメリカン・バー」。<br />
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<img src="images/L1001728.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
]]></content></entry><entry><title>知識経営の源流（３）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19853" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19853</id><issued>2007-12-07T00:49:40+09:00</issued><modified>2007-12-08T10:58:19Z</modified><created>2007-12-06T15:49:40Z</created><summary>マイケル・ポラニー（ポラーニ・ミハーイ）をはじめとして、知識経営の背後の歴史として、現代の経済学、経営学の舞台に登場する人物の多くは、オーストリア・ハンガリー帝国に関係している。
オーストリア・ハンガリー二重帝国は1867年のアウスグライヒ（和協）成立から...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[マイケル・ポラニー（ポラーニ・ミハーイ）をはじめとして、知識経営の背後の歴史として、現代の経済学、経営学の舞台に登場する人物の多くは、オーストリア・ハンガリー帝国に関係している。<br />
オーストリア・ハンガリー二重帝国は1867年のアウスグライヒ（和協）成立から1918年の崩壊に至る時期のハプスブルク帝国をさす。<br />
オーストリア学派と呼ばれる経済学のスクールでは、フリードリッヒ・フォン・ハイエクやジョセフ・A・シュムペーターがとくに有名だ。シュムペーター[1883―1950]は、イノベーションの概念を打ち出した。ハイエク[1899―1992]は、経済学の洞察に知識という概念を持ち込んだ（<a href="http://www.amazon.co.jp/市場・知識・自由―自由主義の経済思想-F-ハイエク/dp/4623016722/ref=sr_1_7?ie=UTF8&s=books&qid=1196955394&sr=8-7" target="_blank">『市場・知識・自由』</a>）。<br />
ピーター・ドラッカー[1909―2005]も、マイケル・ポラニーの兄、カール・ポラニーとの出会いを記している。1927年、場所はウィーン。１８歳のドラッカーは４１歳のカールと当時の政治情勢について議論を交わしている。<br />
キーワードはウィーン、ブダペスト、1918年（オーストリア・ハンガリー二重帝国瓦解）〜1933年（ホロコーストの始まる年）。不安定な15年間。みんなそこにいたのだ。<br />
ブダペストからウィーンの距離は約250キロ。ただし列車ではいまでも３時間かかる。この二都市の政治・経済・社会・文化的状況のなかで知識経済や知識経営の源流が生まれたのだ。<br />
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写真はブダペストからウィーンに向う国際都市間列車の食堂車。<br />
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<img src="images/L1001688.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
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]]></content></entry><entry><title>知識経営の源流（２）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19672" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19672</id><issued>2007-12-04T15:33:50+09:00</issued><modified>2007-12-07T20:59:48Z</modified><created>2007-12-04T06:33:50Z</created><summary>『暗黙知の次元The Tacit Dimension』（1966）を著したマイケル・ポラニーはハンガリー、ブダペスト生まれで、物理化学者だったが、後に社会科学者となる。
兄は経済人類学者のカール・ポラニー、息子は化学者のジョン・ポラ二ーで1986年ノーベル化学賞を受賞している。...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[『<a href="http://www.amazon.co.jp/暗黙知の次元-ちくま学芸文庫-マイケル-ポランニー/dp/4480088164/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=books&qid=1196868904&sr=8-1" target="_blank">暗黙知の次元</a>The Tacit Dimension』（1966）を著したマイケル・ポラニーはハンガリー、ブダペスト生まれで、物理化学者だったが、後に社会科学者となる。<br />
兄は経済人類学者のカール・ポラニー、息子は化学者のジョン・ポラ二ーで1986年ノーベル化学賞を受賞している。<br />
「マイケル・ポラニー」は英語風の読み方で、ハンガリー（マジャール）語では「ポラーニ・ミハーイ」である。<br />
栗本慎一郎先生の<a href="http://www.amazon.co.jp/ブダペスト物語―現代思想の源流をたずねて-1982年-栗本-慎一郎/dp/B000J7MZY8/ref=sr_1_5?ie=UTF8&s=books&qid=1196868981&sr=1-5" target="_blank">『ブダペスト物語』（1982）</a>によれば、ポラニー兄弟の父親は鉄道王で財を成したが破綻し、まだ10代だったマイケルが家庭教師で家計を支えたとある。母親「セシル・ママ」はユダヤ教のラビの娘で、両兄弟をはじめその姉妹をつうじて何人かの天才が輩出した[キーウーマン]だったようだ。<br />
少年期のマイケル・ポラニーは前述のようにブダペストにいた。彼らのアパートメント周辺には、かつては欧州最大級のユダヤ・ゲットーがあった。今も（それでも大きな）シナゴーグの周辺の通りなどにその名残りがある。<br />
（写真はブダペスト、ドハーニ街シナゴーグ裏の元ゲットー周辺。ポラニー家のアパートから歩いて5〜6分だった。）<br />
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<img src="images/L1001679.jpg" width="320" height="215" alt="" class="pict" /><br />
]]></content></entry><entry><title>知識経営の源流（１）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19634" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19634</id><issued>2007-12-03T20:50:01+09:00</issued><modified>2007-12-11T15:05:19Z</modified><created>2007-12-03T11:50:01Z</created><summary>

知識経営、知の経済・経営学は二〇世紀の経営学の必然的な進化である。というのは、その源流に関係している。
明治初期の日本に欧米流経営概念が輸入されはじめた頃、21世紀に向けての新しい動きの種が蒔かれはじめていた。
その主人公のひとり（二人？）はカールと...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[<img src="images/L1001653.jpg" width="215" height="320" alt="" class="pict" /><br />
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知識経営、知の経済・経営学は二〇世紀の経営学の必然的な進化である。というのは、その源流に関係している。<br />
明治初期の日本に欧米流経営概念が輸入されはじめた頃、21世紀に向けての新しい動きの種が蒔かれはじめていた。<br />
その主人公のひとり（二人？）はカールとマイケルのポラニー兄弟だと思う。<br />
マイケル・ポラニー[1891―1976]は「暗黙知」の概念を打ちだした人物だ。彼らはハンガリーの首都、ブダペスト出身。<br />
知識経営の背後の歴史としての現代の経済学、経営学の舞台に登場する人物の多くは、オーストリア・ハンガリー帝国に関係している。<br />
今年の夏、ブダペストを訪れたのは、かつてポラニー兄弟が棲んでいた市内の高級マンションが現存していて、その周辺の現在の様子を是非見てみたいという動機からだった。<br />
兄弟が少年時代に棲んだ場所は市内の高級住宅地、聖イシュトヴァーン大聖堂近くだ。<br />
写真で見てもわかるように、生憎の工事中の垂れ幕でメインのファサードが見れなかったのだが、その嵩と界隈の観察をすることはできた。<br />
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]]></content></entry><entry><title>＜経営＞って（2）</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19539" /><id>http://blog.knowledgeinnovation.org/?eid=19539</id><issued>2007-12-02T14:04:31+09:00</issued><modified>2007-12-02T05:05:24Z</modified><created>2007-12-02T05:04:31Z</created><summary>早稲田大学図書館所蔵大隈重信関係資料には、いくつか明治時代の経営資料が残っている。
１９世紀末の資料は、鉱山・炭坑経営、石油会社経営、など第一次産業の経営に関するものが多い。
変わったものには、大隈重信宛に送られた、北海道の開拓使を廃止して「自由経営」...</summary><author><name>紺野登(KIRO)</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[早稲田大学図書館所蔵大隈重信関係資料には、いくつか明治時代の経営資料が残っている。<br />
１９世紀末の資料は、鉱山・炭坑経営、石油会社経営、など第一次産業の経営に関するものが多い。<br />
変わったものには、大隈重信宛に送られた、北海道の開拓使を廃止して「自由経営」にすべきだという書簡が残っている[1881]。これは函館区民の石川小十郎によるものだ。石川小十郎が何者かわからないが、とにかく激動の時期だ。この年には開拓使における官有物払下事件が起き、翌年には開拓使が廃止された。<br />
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さておき、同年には『哲学字彙』という辞書に「Fixed capital 固定資本」なる訳語が見える。１８９０年には作業会計法が出来た。こういった時期に、どっと西欧の経営概念が流れてきたのだろう。<br />
]]></content></entry></feed>